「泣けるアニメ」の代名詞として、日本中で愛されている名作『四月は君の嘘』。
美しい作画、心揺さぶるクラシック音楽、そして青春の輝きと切なさ。
多くの人がその感動的なストーリーに涙し、絶賛する一方で、検索窓にこの作品名を入れると、予測変換に驚くような言葉が表示されることがあります。
それは、「四月は君の嘘 気持ち悪い」という、一見すると作品の評価とは真逆にあるようなネガティブなワードです。
「あんなに美しい物語なのに、どうして?」と首を傾げるファンも多いでしょう。
しかし、私自身この作品を視聴し、涙を流しながらも、ふとした瞬間に「ん?」と心のどこかで引っかかりを覚えたことも事実です。
熱狂的な賛辞の裏側には、必ず「合わない」と感じる人々の冷静な、あるいは感情的な反発が存在します。
この記事では、なぜ『四月は君の嘘』が一部で「気持ち悪い」と拒絶されてしまうのか、その深層心理を徹底的に掘り下げていきます。
単なるアンチ意見として片付けるのではなく、「なぜ評価がこれほどまでに真っ二つに分かれるのか」という視点から、キャラクターの心理描写、演出の意図、そして私たち視聴者が抱く倫理観のズレについて、私なりの考察を交えて解説します。
この記事には、物語の核心に触れる重要なネタバレが含まれています。
これから作品を楽しみたいという方は、閲覧にご注意くださいね!
この記事のポイント
- 「気持ち悪い」と言われる最大の要因は、中学生離れした心理描写とリアリティの欠如
- ヒロイン・宮園かをりの強引な行動や嘘が、一部視聴者には「自己中心的」と映る理由
- 感動を誘うための演出(死、病気、トラウマ)が「お涙頂戴」として反感を買う構造
- 最終回で明かされる「嘘」に対する、賛美だけではない複雑な感情と倫理的な是非
- この作品を「名作」と感じる人と「不快」と感じる人の決定的な感性の違い
『四月は君の嘘』が「気持ち悪い」と検索されるキャラクター心理と恋愛描写

物語の中心となるのは、有馬公生と宮園かをり、そして彼らを取り巻く友人たちの中学生ならではの青春群像劇です。
しかし、その「青春」の描き方があまりに情熱的で、かつ文学的すぎるがゆえに、視聴者との間に温度差が生まれてしまうことがあります。
「四月は君の嘘 気持ち悪い」という検索意図の多くは、キャラクターたちの独特な距離感や、共感を置き去りにするような心理描写に向けられていることが多いようです。
ここでのポイント
なぜ「気持ち悪い」と検索されるのか
これほど美しい音楽と映像で彩られた作品に対し、なぜ「気持ち悪い」という生理的な拒絶反応を示す言葉が使われるのでしょうか。
私が作品を見返し、ネット上の声を分析して感じたのは、「リアリティの欠如が生む不協和音」が大きな要因ではないかと考えています。
設定上は現代日本の中学生ですが、彼らが抱えている悩みや吐き出す言葉は、まるで人生を何周もした哲学者のように達観しており、同時にドロドロとした情念を含んでいます。
一方で、映像表現としてはアニメ特有のコミカルな動きや、キラキラとした瞳が強調されています。
この「見た目は子供、中身は重すぎる大人」というアンバランスさが、脳内で処理しきれず、「なんか違う」「見ていて居心地が悪い」という感覚、つまり「気持ち悪さ」に変換されてしまうのではないでしょうか。
特に、感動させようとする制作側の意図が見え透いた瞬間に、人は冷めてしまうものです。
その冷めた目線で見た時、キャラクターたちの必死な叫びが、滑稽あるいは狂気じみて見えてしまうのかもしれません。
ヒロインの行動が自己中心的に映る理由
ヒロインである宮園かをりは、天真爛漫で自由奔放なヴァイオリニストとして登場します。
彼女のその性格こそが物語を動かすエンジンなのですが、その行動を「自由で魅力的」と捉えるか、「自分勝手で迷惑」と捉えるかで、評価は180度変わります。
特に批判的な意見が集まるのは、彼女が主人公・有馬公生をピアノの世界に引き戻す際の手法です。
公生は母親からの虐待に近い厳しい指導と、その母の死によるトラウマで、ピアノの音が聞こえなくなっている精神的に脆い状態でした。
そこへ土足で踏み込むようなかをりの態度は、見る人によっては「救済」ではなく「暴力」に映ります。
本人の意思を無視して無理やりコンクールの伴奏者に任命したり、公生のトラウマを刺激するような言葉を投げかけたり。
これらは物語上は「公生を救うための愛ある荒療治」として美化されていますが、現実的な視点で見れば、PTSDを抱えた人間に対するパワーハラスメントに近い側面も否定できません。
「私のために弾きなさい」というスタンスが、彼女の死という結末を知っていてもなお、「あまりに自己中心的すぎる」と嫌悪感を抱かせてしまうのかもしれません。
未成年キャラ同士の距離感に対する嫌悪感
本作のメインキャラクターたちは中学3年生、多感な14歳から15歳です。
しかし、彼らのコミュニケーション、特に身体的な接触や暴力描写は、現代の感覚からすると時に過剰でノイズになります。
特筆すべきは、ラブコメ的な演出として描かれるかをりの暴力です。
公生に対して蹴りを入れたり、ピアニカで殴打したり、楽譜やカバンを投げつけたり。
昭和の漫画であれば「ツッコミ」として許容されたかもしれませんが、繊細な心理描写やトラウマを扱うシリアスな本作において、この暴力描写は「いじめ」や「DV」を連想させ、見ていて辛くなるという声が少なくありません。
また、公生の幼馴染である椿(つばき)の距離感も議論の対象になります。
彼女の公生に対する「ダメな弟のような存在」と言いながらの過干渉や、無自覚なスキンシップ。
これらを「青春の甘酸っぱさ」と受け取るか、「異性としての境界線が曖昧で気持ち悪い」と感じるかは人それぞれです。
特に男性キャラクター(公生)が、女性キャラクターたちから一方的に振り回され、時に理不尽な暴力を受けながらもそれを受け入れている構図に、男女間の非対称な力関係を感じて不快感を抱く人もいます。
主人公への精神的依存が強すぎる描写
『四月は君の嘘』の登場人物たちは、良くも悪くも有馬公生という一人の天才ピアニストを中心に世界が回っています。
かをりも、椿も、ライバルである武士や絵見も、全員が公生に対して並々ならぬ執着を持っています。
これが「ライバル心」や「憧れ」の範囲で収まっていれば熱い展開なのですが、時に「病的な精神的依存」のレベルに達しているように見えるシーンがあります。
特にヒロインのかをりは、自身の命が尽きる前に公生に「忘れられない記憶」を植え付けようと必死です。
「私を忘れないで」「私を見て」という承認欲求と、公生なしでは自分の音楽が完成しないという依存心。
これが「純愛」として描かれていることに、「重すぎる」「まるで呪いをかけているようだ」と感じる視聴者がいるのも無理はありません。
一人の少年の肩に、少女の命と人生の全て、そして母親の呪縛までもが乗っかっている構図は、冷静に見るとあまりに過酷で、歪な共依存関係とも言えるのです。
雪の降る屋上で、かをりが公生に対して「私と心中しない?」と問いかけるシーンは、その危うい依存関係の極致と言えるでしょう。
ここが「依存」に見えてしまうポイント
- 公生がピアノを弾かないと自分の存在意義がないかのような言動
- 相手の心の傷を無理やりこじ開けてでも自分色に染めようとする姿勢
- 「心中」という言葉を安易に口にする精神的な危うさ
- 周囲の人間も公生のケアを優先しすぎ、公生自身の意思が二の次になっている環境
感情の押し付けに感じるセリフ回し
この作品の最大の特徴であり、同時に賛否を分けるのが、非常に文学的で詩的なモノローグ(心の声)の多さです。
「君は春の中にいる」「音が景色を連れてくる」といった美しい表現は作品の魅力ですが、これが全編にわたって続くと、「ポエムっぽい」「ナルシストに見える」という感想に繋がります。
日常会話のレベルを超えた感情表現が連発されることで、視聴者はキャラクターの感情の波に置いてけぼりにされる感覚を味わうことがあります。
「ここで感動してください!」「ここは名言ですよ!」と言わんばかりのセリフ回しが、逆に感情の押し付けのように感じられ、白けてしまうのです。
特に、公生が自身の不幸や苦悩を語るシーンにおいて、どこか悲劇の主人公である自分に酔っているように見えてしまうと、一気に「気持ち悪い」という感情が湧き上がってしまいます。
中学生が「僕の住む街はカラフルに色づいている」などと日常的に思考しているとは考えにくく、そのリアリティのなさが没入感を削ぐのです。
キャラの言動が現実離れしている点
舞台は現代日本の中学校ですが、そこで繰り広げられる演奏や行動は、時にファンタジーに近いものがあります。
中学生がプロ顔負けの人生哲学を語ったり、演奏中に会話レベルで高度な意思疎通をしたり。
「漫画だから」と言ってしまえばそれまでですが、リアリティラインの調整が独特なため、そこに違和感を持つ人は物語に入り込めません。
| 作品内の描写 | 現実的な感覚(違和感) |
|---|---|
| 演奏中に長文のポエムを独白する | 極限の集中状態にあるはずの演奏中に、あそこまで論理的な思考と言語化ができるのは不自然。演奏そのものよりモノローグが長すぎる。 |
| 重病人が病院を抜け出しデートする | 歩くのもやっとの状態であるはずのかをりが、病院を抜け出して公生とデートをしたり、薄着で屋上にいたりする。病院側の管理体制や大人の責任感のなさが気になってしまう。 |
| 公生の母の亡霊が見える | トラウマの視覚的表現だとしても、黒猫や母の姿がホラー演出に近く、生理的な恐怖を感じる。 |
共感できないキャラクター心理
特に議論を呼ぶのが、「嘘」をついていたかをりの心理とその倫理観です。
彼女は公生に近づくために、公生の親友である渡亮太(わたり りょうた)が好きだという嘘をつきます。
この「親友をだしにする」という行為に対して、嫌悪感を抱く人は非常に多いです。
作中では「恋する乙女の可愛らしい嘘」として処理され、美談として描かれていますが、利用された渡の立場になれば、たまったものではありません。
もちろん、渡自身は「俺のところにこないか」と誘ったり、最終的には「イイ女だったな」とかっこよく受け止めていますが、視聴者側としては「死ぬ間際だからって何でも許されるのか?」というモヤモヤが残ります。
「目的のためなら周囲を巻き込み、嘘をついてもいい」というヒロインの心理構造に、共感どころか反発を覚えるのも無理はないでしょう。
「嘘」が暴かれた時のカタルシスよりも、「結局、みんな彼女の手のひらで踊らされていたのか」という虚無感が勝ってしまうのです。
恋愛描写が重たく感じられる原因
中学生の恋愛にしては、背負っているものが「死」や「虐待のトラウマ」であるため、とにかく重いです。
爽やかな青春ラブストーリーを期待して見始めた層にとって、この湿度の高いじっとりとした恋愛描写は胃もたれを起こします。
「好き」という感情が、常に「喪失の予感」や「過去への贖罪」とセットになっているため、純粋な胸キュンを楽しむ隙がありません。
この「重さ」が、見ている側の精神力を削り、「もう見ていられない=気持ち悪い」という感想に変換されることがあるのです。
大人が見て引いてしまうポイント
大人の視聴者視点で見ると、子供たちの危うい行動を止められない、あるいは放置している周囲の大人たちにもイラ立ちを覚えることがあります。
病気の子供を無理やりステージに立たせようとする場面や、公生が母親から受けていた虐待の事実を知りつつ、有効な手立てを打たなかった周囲の大人たち。
また、中学生たちが大人びたセリフを言うたびに、「背伸びしすぎていて恥ずかしい(いわゆる共感性羞恥)」を感じてしまうことも。
大人が見るにはあまりに青臭く、かといって子供が見るにはテーマが重すぎるという、ターゲット層のミスマッチも「気持ち悪い」と感じさせる一因かもしれません。
『四月は君の嘘』の演出とストーリー構成に対する賛否両論

キャラクター個人の資質だけでなく、作品全体の構成や演出技法についても、「気持ち悪い」と言われてしまう要素が散りばめられています。
感動の押し売りとも取れる演出や、悲劇を美化する姿勢。
ここでは、ストーリー展開やテーマの扱い方について、批判的な視点も交えつつ考察していきます。
多くの人が涙したその裏で、なぜ一部の人は冷ややかな視線を送っていたのでしょうか。
このセクションの目次
感動狙いが露骨に見える演出
いわゆる「お涙頂戴」と呼ばれる演出の多さです。
『四月は君の嘘』は、物語の序盤からヒロインの死を予感させるフラグが立ち並び、最終的に悲劇的な結末へと向かうことが規定路線のように描かれています。
この「泣かせに来ている」構造が透けて見えると、視聴者は物語を楽しむのではなく、制作側に感情を操られているような感覚に陥ります。
例えば、絶妙なタイミングで流れる感動的なアコースティックBGM、夕焼けや桜といった情感たっぷりの背景美術。
これらは作品の質を高める素晴らしい要素ですが、あまりに過剰すぎると「演出過多」となり、作為的なものを感じさせてしまいます。
「はい、このシーンで泣いてくださいね」というガイドラインが見えるような押しつけがましさが、一部の層には「あざとい」「気持ち悪い」と受け取られてしまうのです。
悲劇を美化しすぎている点への違和感
本作では、死や病気、そしてトラウマといった本来ネガティブな要素が、非常に美しく、キラキラとしたものとして昇華されています。
しかし、現実の闘病や虐待の後遺症は、もっと泥臭く、綺麗事では済まされないものです。
それをエンターテインメントとして美しく描くこと自体は創作の自由ですが、限度を超えると倫理的な違和感を生みます。
かをりが徐々に弱っていく姿さえも「儚い美しさ」として演出されている点に、「人の死をアクセサリーにしているのではないか」と感じる人もいます。
「死を消費している」という批判は、この手の「難病もの」には常につきまとう問題ですが、『四月は君の嘘』はその圧倒的な映像美ゆえに、悲劇の美化がより鮮烈に、グロテスクに感じられるのかもしれません。
病気設定を物語装置として使っている印象
ヒロインのかをりが患っている病気について、具体的な病名は作中で最後まで明言されません。
手術が必要で、発作があり、足が動かなくなり、最後は命を落とす。
この曖昧さが、「物語を盛り上げるために都合よく設定された架空の病気」という印象を強めてしまいます。
公生を成長させるための「起爆剤」として、ヒロインの病気と死が利用されているように見える。
これが「ヒロインが可哀想で泣ける」という感想を超えて、「キャラクターを道具扱いしている脚本が冷酷で気持ち悪い」というメタ的な批判に繋がっています。
彼女の人生は、公生を再生させるためだけに存在したわけではないはずなのに、物語の構造がそう見せてしまっているのです。
視聴者の涙を誘導する展開の連続
物語中盤から終盤にかけては、畳み掛けるような不幸と、それを乗り越えようとする健気な姿の連続です。
公生の母の死のフラッシュバック、かをりの容態急変、コンクールでの失敗と再生、そして死。
息つく暇もない感情のジェットコースターは、ハマる人には最高のエクスタシーですが、冷めている人には「もうお腹いっぱい」「悲劇のバーゲンセールか」としつこく感じられます。
涙腺を刺激され続けることに疲れてしまい、感動よりも疲労感や拒絶感が上回ってしまうのです。
音楽シーンと感情表現の過剰さ
演奏シーンにおける「心象風景」の描写は、本作の最大の見せ場です。
ピアノを弾きながら海の中に沈んだり、満開の花畑が広がったり、空へ飛んでいったり。
しかし、これが「音楽アニメ」として見た場合、「演奏そのものよりも、演奏者のポエムや妄想の描写が長すぎる」という不満点になります。
純粋に演奏技術や楽曲の解釈を楽しみたい人にとって、演奏中に延々と続く自分語りのモノローグは邪魔なノイズになり得ます。
「音楽の力」を描いているはずが、「音楽をダシにした自分語り」に見えてしまうと、その陶酔感が痛々しく映ります。
演奏中に客席の反応を細かく気にしたり、亡き母と対話したりといった描写は、現実の演奏ではあり得ないため、興醒めしてしまうのです。
嘘というテーマの扱い方への賛否
タイトルの回収となる最終回の「嘘」。
これを「美しい愛の嘘」と捉えるか、「最後まで自分勝手な欺瞞」と捉えるか。
かをりの手紙によって明かされる真実は衝撃的ですが、同時に「じゃあ、今まで周りの人間が見ていた彼女の笑顔は演技だったのか?」という疑念も生みます。
特に、彼女の嘘によって振り回され、傷ついたかもしれない渡や椿の気持ちを考えると、手放しで「感動した」とは言えない。
そのモヤモヤを残したまま、美しい音楽と共にエンドロールが流れることに、納得のいかない感情が「気持ち悪い」という言葉に集約されているようです。
「嘘」に対する評価の分かれ目
- 肯定派:命を懸けて公生を救おうとした、不器用で切ない一世一代の愛の証。嘘をついてでも彼に近づきたかった純粋さ。
- 否定派:自分の恋を成就させるために他人を利用し、死後に手紙でネタばらしをして美談にする計算高さ。死人に口なしのズルさ。
見ていて辛くなる展開が続く構成
物語の構造上、カタルシス(解放感)を得るためには、その前に強いストレスを与える必要があります。
しかし、この作品はそのストレス(公生の苦悩、母の幻影、かをりの悪化)の期間が長く、また描写も深すぎます。
「いつになったら救われるの?」という閉塞感が続き、見ているこちらの精神まで蝕まれるような感覚。
これを「重厚なドラマ」と評価するか、「ただただ辛くて不快な時間」と評価するかの違いです。
特に週刊連載やテレビ放送をリアルタイムで追っていた層にとって、この鬱々とした展開は苦痛だったことでしょう。
「名作扱い」への反発意見が生まれる理由
人間心理として、世間で「泣ける!」「最高傑作!」と手放しで絶賛されている作品に対して、天邪鬼な反発心を抱くことは珍しくありません。
特に『四月は君の嘘』は、「泣けない人は心が冷たい」「これを理解できない人は感性が乏しい」といったような極端な言説が、一部の熱狂的なファンの間で飛び交うこともありました。
こうした同調圧力への反発が、「いや、自分は気持ち悪いと思った」「面白くないと感じる自分がおかしいのか?」という逆張り、あるいは本音の検索行動を加速させている側面もあります。
好き嫌いが極端に分かれる作品性
結局のところ、この作品は「生理的に合うか合わないか」が非常にハッキリ出る作品です。
ポエムのようなセリフ回しに酔いしれることができるか、キャラクターの激しい感情の起伏に共感できるか。
中間がなく、0か100かの評価になりやすいため、批判的な意見もまた鋭く、強い言葉(気持ち悪い、駄作など)になりがちなのです。
中途半端な作品であれば、ここまで強い言葉で検索されることはありません。
トラウマ描写がしつこいと感じる層の声
公生が母の幻影に怯えるシーンは、形を変え、場面を変え、何度も何度も繰り返されます。
「音が聞こえなくなる」という表現も執拗に描かれます。
トラウマの根深さを表現するためとはいえ、「くどい」「またそのパターンか」「もうわかったから先に進んでくれ」とうんざりしてしまう視聴者もいます。
解決したと思ったらまたぶり返す展開に、ストーリーの停滞感を感じ、イライラしてしまうのです。
美談としてまとめるラストへの違和感
最終的に、公生はかをりの死を乗り越え、音楽家として、人間として大きく成長します。
しかし、「一人の少女の死を犠牲(踏み台)にして、一人の天才が復活した」という構図を、美しい思い出としてパッケージングすることへの抵抗感。
「彼女が死んでよかった」わけでは決してありませんが、物語構造上、彼女の死が公生の覚醒にとって「必要不可欠なピース」として扱われていることに、作り手の冷徹さを感じてしまうのかもしれません。
ハッピーエンドでもバッドエンドでもない、この「メリーバッドエンド(受け手によって解釈が分かれる結末)」的な終わり方が、消化不良を起こさせる原因となっています。
ご都合主義に見えるストーリー進行
偶然の出会い、偶然の再会、都合の良いタイミングでの病状の悪化。
ドラマチックにするために、リアリティよりも「展開の都合」が優先されていると感じる箇所がいくつかあります。
ご都合主義(デウス・エクス・マキナ)的な展開は、物語への没入感を削ぎ、「作り話を見せられている」という冷めた感覚を引き起こします。
黒猫というシンボルの扱い方も含め、すべてが「公生のためにあつらえられた舞台」に見えてしまうのです。
泣ける=良作という評価基準への疑問
「泣けるアニメランキング」などで常に上位にいますが、「泣けること」と「作品の質が良いこと」は必ずしもイコールではありません。
ただ悲しい出来事を羅列すれば人は条件反射的に涙を流しますが、それが物語として優れているかは別問題です。
この作品を「気持ち悪い」と感じる人は、「安易に泣かせようとする浅さ」や「泣かせテクニック」を敏感に感じ取っているのかもしれません。
涙を流すこと自体を目的にした「感動ポルノ」ではないか、という厳しい指摘も存在します。
重いテーマが合わない人の正直な感想
シンプルに、エンターテインメントに「癒やし」や「楽しさ」を求めている人にとって、この作品は劇薬すぎます。
親からの虐待、死への恐怖、コンプレックスといった重いテーマは、見る人の精神状態を選びます。
「仕事で疲れている時に見るんじゃなかった」「見ていて気が滅入った」という感想は、作品の否定というよりは、相性の問題と言えるでしょう。
リラックスしたい時に見るアニメではないことは確かです。
感動より先に不快感が来る理由
これまで挙げてきた「暴力描写」「ストーカー的な執着」「ポエム的なセリフ」といった要素が、感動ポイントよりも先に目についてしまうと、もう挽回は不可能です。
一度「このキャラ無理かも」「このノリについていけない」と思ってしまうと、その後の感動的なシーンも全て「茶番」に見えてしまう。
これが、感動より先に不快感が勝ってしまうメカニズムです。
第一印象でつまずくと、最後までその「気持ち悪さ」を引きずったまま完走することになります。
恋愛と死を結びつける表現の是非
「セカチュー(世界の中心で、愛をさけぶ)」ブーム以降、日本のコンテンツには「死と恋愛」をセットにした作品が多く生まれました。
『四月は君の嘘』もその系譜にありますが、「死ぬからこそ美しい」「限られた時間だからこそ燃え上がる」という価値観そのものに、生理的な拒否反応を示す人もいます。
命を恋愛のスパイスのように扱っていると感じると、強い嫌悪感を抱くのは倫理的にも自然な反応かもしれません。
「健康な状態で愛を育む物語が見たかった」という根本的な願望との乖離が、不満を生んでいるのです。
この記事の総括

まとめ
- 「気持ち悪い」の正体は、リアリティのないセリフ回しや過剰な演出への違和感。
- ヒロインの行動(暴力や嘘)は、見る人によっては自己中心的で不快に映る。
- 「感動の押し売り」と感じさせる構造が、一部の視聴者の反発を招いている。
- 虐待や死といった重いテーマの扱い方に、倫理的な拒否反応を示す人もいる。
- 賛否両論あるのは、作品が持つ熱量が凄まじく、見る人の価値観を揺さぶるからこそ。
公式サイト情報:
ここまで、『四月は君の嘘』がなぜ「気持ち悪い」と言われてしまうのか、その背景にある様々な要因を忖度なしで考察してきました。
私自身、この作品を見て心震えた人間の一人ですが、こうして批判的な意見を整理してみると、それらの意見にも十分に理があることがわかります。
キャラクターの強烈な個性、未成年特有の未熟さと危うさ、そして「死」を扱う物語の構造。
これらは全て、見る人の感性や置かれている状況、そして過去の経験によって、「最高の感動」にもなれば「生理的な不快感」にもなり得る諸刃の剣です。
「気持ち悪い」と感じることは、決してあなたの感性がおかしいわけではありません。
むしろ、物語の裏側にある歪みや、演出の作為、あるいは倫理的な問題を敏感に感じ取った結果とも言えるでしょう。
逆に言えば、これほどまでに強い拒絶反応を引き出すということは、それだけこの作品が「強烈なエネルギーを持って描かれている」ことの裏返しでもあります。
当たり障りのない、誰からも嫌われない作品であれば、「気持ち悪い」とまで言われることはなく、ただ忘れ去られるだけですから。
好きも嫌いも、すべてを飲み込んで視聴者の心を揺さぶるパワーがあるからこそ、これほど長く語り継がれる作品になったのだと思います。
もし、あなたがこの作品を見て違和感を覚えたのなら、その「合わなさ」を大切にしてください。
そして、もしこの作品が大好きなら、批判的な意見があることも理解した上で、自分にとっての「名作」として胸に留めておけば良いのです。
評価が割れることこそが、この作品がただの綺麗な物語ではなく、見る人の心を深くえぐる力を持っていた証拠なのかもしれません。


